昭和46年11月10日 朝の御理解
御理解 第84節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛ではないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通のは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
大きな信心、それに今日の八十四節の「おごりがましいことをすな」と、こう言われます。確かに大きな信心は行き詰まりがない。例えて、今申しました。親鸞上人様の教えておられるような信心はね。理屈の上から言うと、教学の上から言うと、確かに、悪人も助かる、救われるのだと、善人すら助かっておるのであるから、悪人なら尚更のこと救われるんだと。「悪人においておや」と、大変大きいですね。
なるほど、天地の親神様というのは、私は本当にそうだろうと思います。善人もかわいいが、悪人は尚更かわいいと。いわゆる、屑の子ほどかわいいとおっしゃるわけでしょう。ですから、悪人そのものがです、ただ、悪人の自覚もなからなければ、いわゆる御粗末御無礼の自覚もなからなければ、精進しようという、いわゆる精進の心もないならば、それでも助かるというのなら、ちょっとおかしいですね。
金光様の信心はそこのところを、例えば「おごりがましいことをすな」と教えられたり、または次には「大きな信心がよい。大きな信心には行き詰まりがない」と、私どもは頂いとります。なるほど、大きな信心には行き詰まりがない。それはいわば、親鸞上人の行き方で行けば、行き詰まりはない、心の呵責もなければ、苦しい、自分の心を自分で責めさいなむことはないであろう。ただ、南無阿弥陀佛と言えば助かると、阿弥陀如来様という方はよいなあ。
天地金乃神様という方は、その位のことをとやかくおっしゃる神様ではない。確かにそうだと思いますけれども、これは信心を頂く者の側、人間氏子の側から頂きますと、大きな信心でなくて、繊細な信心、小さなところにも、御粗末御無礼と。御粗末御無礼を気付かせてもらって、やはりそこのところから、詫びて詫びぬいて行く。許されなければ前に進まれんというような行き方、だからその両面がどうしても、なからなければいけんように思いますね。
「おごりがましいことをすな」おごりがましいことの出来る程しにおかげを受けておる。有難いことだなあと御礼申し上げれば、おごりがましいことにはならん。本当に、その自分の心に引っ掛かるとか、自分の心に、例えば苦しい思いをすると。けれども、やはり苦しい思いをするところは、やはりしなければ次の精進の手掛かりがないですね。難しいもんですね。その辺のところは。もう二十何年も前だったでしょうか。前の晩に何かがあって、少し頂き過ぎておった。
あくる日のお食事の時に、いろいろおご馳走が出来とるけれども、頂こうという気が起こらん。前の晩に少し頂き過ぎてるものですから、ですからその頂き過ぎておるということは、言うならば「大酒大食すな」と仰るのに、大酒大食をしておるとすると、これは御粗末であり、御無礼な頂き方をしておるのである。だから、御粗末な頂き方をした。御無礼な頂き方をしたとすれば、そこにお詫びよりほかにないのである。これからは、食べ過ぎたり、飲み過ぎたりするようなことは致しませんと言う様な。
改まった形というのが、そこにあらなければいけない。御粗末であった、御無礼であったと心の中に、これは食物のことだけじゃないです。一事が万事なのです。けどもこれを、私はその時にです、もう本当に、ついこの頃までは一碗の御飯ですらよう頂きかねておった私。お粥さんでもすすりかねる程しの私であったののが、何年後の今日には、それこそ食べ過ぎる程に頂けて、しかも今日などは目の前に色々ご馳走などが出ておりますけど、食欲すらが起こらない、食べようとも思わない位にね。
おかげを頂いておりますと御礼を申させて頂いたらね。私の心はスッキリした。いうなら平常通りの、まあ、御粗末御無礼お詫びばっかりしておった心から、開放されたような感じが致しました。「ああ、ゆうべの食べ過ぎやら、飲み過ぎやらが、これで許された」という感じがしたことがありました。難しいことですね、信心はだからそこら辺のところが、非常に味わいがあるとこうと思いますね。
本当に神様、ついこの頃までは一碗の御飯ですら食べかねる程しの貧乏しておって、さあ少し都合がよくなったというて、もう食べ過ぎるごと食べてる。もう翌る日は食べられんくらい大酒大食をしてる。そう言う所を八十四節では、「おごりがましいことをすな」とこう仰る。少し調子がよいからというて、「おごりがましいことをすな」と。そこで例えば、心の呵責というものがです、「相済まんことであった。
相済まんことであった」とこう思う。そこで例えば、なら私の心の中にです、ついこの頃までは一碗の御飯も頂きかねる程しの貧乏であった私が、只今、今日このようなおかげを頂いておると言う事はなんと勿体ない、有難いことでしょうか。目の前に沢山のご馳走が出されても食欲さえ起こらない程しにおかげを受けておると心に思い、それを念じさせて頂いたら。それはひどい。それは食物だから、そんなことは当らないかもしれんけれども。罪を犯した、いわゆる罪悪感というものがなくなった。
そこに私の助かりがある。だから、こういう行き方で行けば、なるほど大きな信心であり、行き詰まりはないのである。どういう御粗末御無礼が出来ておっても、今私が申しましたように、そのことに対して御礼が言えれるような心ですね。例えば、おごりがましいことをしても、そのおごりがましいことが、出来る程しにおかげを受けておると言う事が、なんと有難い事かと御礼を申し上げるような心。
ところが、今日は八十四節を頂いとるのでございますから、「おごりがましいことをすな」とおっしゃるなら、おごりがましいことをしたと言う事になったら、もう私はお詫びを言うよりほかにない。いや次の精進の手掛かりとしてもです、お詫びの印にと言う事になってくるのではないでしょうか。そこのところの両面がですね。出来ていかないと信心は成長しないように思います、いわゆる行き詰まりがない、自分の心の呵責というものもない。というて別に横着な心ではない。
けれども、おかげを頂いて、食べすぎ飲みすぎるほどおかげを頂いとりますと。御礼を言う心がまた神様に通うのである。心の呵責はもう一ぺんに無くなった。私は今日、その食べることから言うてますけれども、他の道理のことであってもそうなのです。信心の薄かった時には、いや信心の無かった時には平気、人間だからこげなことは当たり前であったのが。信心がわからせて頂くようになると、それが御粗末であり、御無礼であることがわかってくる。
もっと分ってくると、御粗末御無礼じゃない、御礼を言う様な心が生まれてくると、もうそこには平常心が頂かれておる。ならもっと信心が進んでくると、そういうて只御礼を言うて済まされるものじゃない。今度は詫びた上にも詫びなければ、許されたこころが心の中に頂けなかったら、前には進まれないと言う事からでも、その人の信心によって違うてくる。例えば「おごりがましいことをすな」おごりがましいことをする。それが一つも引っ掛からない。だから大きな信心であります。
身分不相応なことをする、それでも平気。そのことが気になる。いやそのことが御礼を申し上げることだと気付かせてもらって、御礼を申し上げる。そこにはもう引っ掛かりはない。デリケートというたら、これくらいデリケートなものはないですね。けども、余り大きな信心で、行き詰まりがない、引っ掛かりがないと言うておったんでは、信心の精進をする心の手掛かりがない。
よくありますですね、お詫びの印に自殺をするという人が、何かそこに不調法をしでかした「本当に相済まんことであり、生きてはおれない。死んでお詫びを致します」というようなことがございましょう。死んでしまったらそれまでですから、死んでそれこそ花実が咲くものか、死んだからというて。お家重代の家宝であったものをこわした。その責任者は切腹して果てた。昔の話によくありそうな話である。それで切腹して死んだからというて、このこわれたものがどうなることじゃない。
けれども私は信心はね。本当に死んでお詫びをする位のものがなからなければ、信心は精進しないです、進まないですね。そこんところを「死んだ気で」というのです。死んだ気で励む。死んだ気でお詫びをする。「死んだ気で励めつとめよ。徳もつく人も助かる道も開ける」これは私の修行中に頂いた歌です。問題は「人も助かる、道も開ける」と言う事。勿論それはわれ自身も助かっておる。信心はここが有難いですね。
死んでお詫びしたところでどうなります。自分は勿論助からないが、道も開けることもなからなければ、人も助かることもない。死んでお詫びをする。死んでお詫びをしちゃいけんのだけれど、そんなことでは道も開けんし、徳も頂けんし、人も助からん。けれども、死んだ気でお詫びをすることは素晴らしいことです。それが例えば大きな信心といったことからは、生まれてきません。
成程御礼を言う心が生まれた。自分には分に過ぎるようなこと、いわゆるおごりがましいことを出来ると言う事、そのことが有難いんだと、食べ過ぎるほどに頂けることは有難いんだと。なるほどそれが嘘ではないならばです。形でない嘘でない実感として、御礼を申し上げたら、心にかかっておった呵責の念というものはとられます。だから場合によっては、そういう引っ掛からなければならない事柄にでも、御礼を申し上げる程しの信心が、そうとそういう心の目がひらけて。
「いや、これは心にこれだけ苦しんでおることじゃなかったたい。かえって御礼を申し上げねばならんじゃった」と気付かせてもらったら、それでそこは通り抜けることは出来る。けれども、それだけでは信心に精進がなされない。いわゆる手掛かりがない、精進の手掛かりがない。だから場合によっては、神様が不調法させて、詫びさせて、力を下さろうという働きすらあるのだなと、思わして頂くようなことがある。不調法したのじゃない。神様が不調法させなさる。
例えば、お家重代の宝もの、いわゆるそれを不調法させて割らせて。これが本当に死んででもお詫びせんならんと、けども死んだからというて花実が咲くものじゃないから、死んだ気で、例えばお家のために奉公しようという心が起きれば、それが有難い。それを、例えば神様はそういう場合も感じられます。不調法させて、そこから死んだ気で励まさせなさる。私どもが順調に商売がいってたのが、途端に反対にならして頂いて、いわゆる棒にも箸にもかからんようになってしまった。
神様はおかげを頂かせて下さっておったんですから、あの通りであったら商売はいよいよ繁昌するであろう。いよいよ大きな御用が出来るであろうけれども、神様はその繁昌しておったのが、ピタッと止まるようなことにしてしまいなさった。右と願えば左、左と願えば右と言う様な状態に、いわば追い込まれてしまった。そして感じたのは、私の慢心であったと言う事であった。そこでいわば、墨炭の苦しみの中からお詫びをしぬかせて頂いて。おかげを頂いた。すべての点に苦しいことになってきた。
一生懸命にお縋りすることなのですけれども、結局、本気でお詫びをしなければと。私が貧乏する。借金を負う。借金が払えない。そこにはもう、あの人は金光様の信心しよって、銭払いが汚いとか、ろくな奴じゃないとか言う様な事になってくる。いわゆる神様の顔を汚すようなことになってくる。これでは相済まんとして、神様にお詫びの印の信心が出来る。そこに、神様が「さあ死んだ気で励めよ」とこう仰る。
今日の御理解は、実を言うたら私がどのような借金を負うておろうと、借金支払いが出来ないであろうとです。本当に神様の顔に泥をぬるような、金光様の顔に泥をぬるようなと思うておるけれども、金光様という方は、天地乃親神様という方は、そのくらいのことで「私の顔が汚れる。私の顔が立たんじゃないか。どうしてくれるか」と仰る様な小さい方ではないと悟ることが大きな信心ですね。
けれども、私どもとしてはです、本当に神様に顔いわゆる、ここの綱領の中にあります。「お道を汚す、信心を汚す、心配をさす」である。「御簾を奉れ」とこう仰る。御簾を奉るために一生懸命精進をした。借金払いも出来ますように、私のことを心配して下さる方達の安心も受けられるように。そのために金光様の御信心とは、そげなことで良いかと言われることによって道を汚しておる。それを奉納してしまう。お供えしてしまう程しのおかげを頂きたいと念願する。
そこで神様は「さあ、ここで一つ頑張りどころだぞと、死んだ気で励めよ」とこうおっしゃる。死んだ気ですから、そこにはもう、甘いの辛いのと不平不足のあろうはずがない。死んだ気ですから、眠いやら、きついのというものはみじんと起こらない。死んだと思うたら、こんくらいはということになってくるというようにして、精進して行けばです、必ず人徳も受けられる。道も開けてくる。人も助かってくるんだと。さあ一生懸命で、いうならば、これは小さい、非常に神経の細かい信心なのです。
けれども、そこんところに徳が受けられるという信心が生まれてくる。親鸞上人様、この頃から蓮如上人様の話が次々に出ましたですね。成程天地乃親神様という方はそういうことを責めたり、さいなんだりなさる方ではない。漁師であろうが、狩人であろうが、「南無阿弥陀佛」と称えれば助かるんだと。成程自分の心は助かると。信ずると言う事は、神様をそのように信ずると言う事である。
けれども、そういう行き方では神様に、信じられるおかげは受けられないというのでしたよね。金光大神はそのことを、教えられるかと思うと、次には、神に信じられることを、道を教えておられます。神に信じられる。そこんところが、「おごりがましいことをすな」と言う事になる。神様から信じられると言う事は、お道のふうでいうと、お徳を受けると言う事になる。
神に御神徳を受けると言う事は、神様から信用される氏子と言う事。その証拠には、蓮如上人の場合なんかは、それこそ皆が生仏様のごと言うたかと思うけれども、人から信用されたけれども、また蓮如上人が信じておられる仏様は絶対のものと信じておられるけれども、信じられておられない証拠に貧乏が一生続いておるじゃないかと言う事になるのです。だから金光様の信心は、神から信じられると言う事。勿論信ずると言う事はまず身につけていかにゃいかん。
神様の一分一厘の間違いなさを信ずると言う事。その次には、信じられる私になることのために、詫びることを身につけていかねばならんと言う事になります。いやそこを知らなければならない。詫びていくと言う事。そこで只「済みません。済みません」と言うとることだけではなくて、詫びのしるしに切腹してでも申し開きをせなければと、例えば言うわけですけど、死んだのでは身も蓋もないことになりますから、死んだ気でお詫びをするというくらいなお詫びでなければ神様には通わん。
「毎日お詫びばかりしよります。済みません。済みません」口ばっかり。そこでまず、お詫びのしるしにと精進していく、しかもそれはもう死んだ気でお詫びしていく。そこからです、頂けるものは、道も開けるであり、徳も積むであり、人も助かるである。と言う様なおかげに展開してくるわけです。今日はここんところの「おごりがましいことをすな」そのおごりがましいと言う事に気付かせて頂いて、そこんところを一つ本気で、「ああ、こんなことでは相済まんことであった」と詫びていく。
それも一つ、本気で詫びていく。いうなら死んだ気で詫びていく。そこには不平もなければ不満もないでしょう、死んだ気ですから。そういう姿勢を以て詫びて行くと言う事にならなければ、私は信心を向上していく、進んでいく手掛かりにはならないと思う。只済みません。済みませんと詫びていくだけでは、つまらないと言う事です、細うても踏み広げて通る道私はそういう行き方の上に、自然と神様の御信用もついてくる。
「道に草を生やすような事すな」と言う事をおっしゃるが、道に草を生やす、自分の進んで行くとこの道を、もうお詫びに撤して、私は進んでいくと言う事を、私はそういう信心こそ、道に草を生やさんようになる。人間ですから、例えば大きな信心、行き詰まりがない信心。例えば、御粗末御無礼というても、例えて先からの例えを申しますとです、成程ついこの間まで、一碗の粥にでも事欠いていた私が、今日はもうそれこそ大酒大食しようと思えば出来る。
飲み過ぎることでも、食べ過ぎることでも、なんぼでも頂けておると言う事ですけど。そういう程しのおかげを受けておることに気付かせて頂いたら、心から御礼が言えれる。その言えれる心には、もう自分の心の呵責というものはないけれども、さあそこが人間の愚かさ、食べ過ぎる程しのおかげを頂いとる。飲み過ぎる程しのおかげを頂いとる。いうなら、おごりがましいことの出来る程のおかげを受けておるのですけど、それを只御礼を言うておる内に、いつのまにか御体の方が保てんごとなって。
昨日食べ過ぎたけん、飲み過ぎたけん。今日はもう食べられんちゅうようなことが毎日続きよってんなさい。まあ御礼だけでは済まされないことになってくる。さあそこが人間の弱さなのです。そこで私どもの場合が、まあこれを仏教的に言うと「人力に於て然り、他力に於て然り」と言うことになって来るのである。その自力と他力の信心が一つになって、場合によっては、御礼だけで、いわばそこを通り抜けさせてもらう道。場合によっては、詫びて詫びて詫びぬいて。
しかも死んだ気で詫びる程しのお詫びに撤しながら、信心がいよいよ向上していく。そこに信心向上の手掛かりを頂いて進んでいく。そうして後から気付かせて貰う事は、「ああいう不調法も、ああいう御粗末御無礼も、神様が御粗末御無礼させてござったなあ」そこに塗炭の苦しみの中に入っていったけれども、その塗炭の苦しみのおかげで、道が開ける程しの人が助かる程しの、人徳が受けられる程しの信心が、いわゆる神に信じられる信心が、そこから生まれたと言う事になれば、そこから大した事になって参りますね。
どうぞ。